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大阪家庭裁判所 昭和51年(家)1914号 審判

申立人 ○○市 外一名

被相続人 宮田よしの(仮名)

主文

被相続人亡宮田よしの相続財産のうち、申立人○○市に対して金四〇九万九、七六八円を、申立人野村治夫に対して金一五〇万円をそれぞれ分与する。

理由

第一申立の実情

1  被相続人宮田よしのは明治四二年八月二日、父宮田義一郎、母かやの長女として出生したが、義一郎が古くから○○市立××小学校の校務員であり、同小学校の一隅に起居していたことから、被相続人も幼少の頃から同小学校と関係が深く、自らも同小学校で教育を受けたのみならず、昭和一八年からは、同小学校の校務員として正式に勤務するようになつた。以来、急病のため死亡するに至つた昭和五〇年二月二四日まで被相続人は同小学校の校務員として勤務した。

2  被相続人は同小学校に勤務している間、地元の人々に親しまれ、家族のように考えられていたので、地元自治会が葬儀を主宰し、遺骸を弔つた。その後、被相続人に相続人が存しないことが判明したので、同小学校職員や地元民の要望によつて、申立人○○市が相続財産管理人選任の申立をしたのであるが、同申立人としては、同申立人が特別縁故者として相続財産の分与を受けた場合には、それを同小学校関係の基金とする等して、被相続人の遺志を活かしたいと考えている。

3  また、被相続人は長年同小学校の校舎内で生活し、同小学校が改築工事を始めた昭和四三年頃からは校庭内にプレハブ住宅を建築してもらつて、居住していたが、かねてから親しく交際していた申立人野村において、天涯孤独な被相続人に家庭の暖かさを知らせるべく、被相続人に同申立人宅に寄宿するよう勧めた結果、被相続人もこれを受入れることとし、昭和四七年頃から同申立人宅に居住するようになつた。以来、同申立人は被相続人を家族の一員であるかのように遇して生活を共にするとともに、昭和五〇年二月二四日被相続人が急病になつて死亡する際には、同申立人やその家族が立会い、葬儀も同申立人宅で行われた。その後の財産の保管、関係者への連絡等は、すべて事実上同申立人が行つて来た。なお、被相続人は生前、同申立人に対し、被相続人の財産から寺へ永代供養の費用を支払つて、被相続人の霊を弔うよう要望していたので、同申立人において、特別縁故者として相続財産の分与を受けた場合には、被相続人の霊を弔う方法を構じたいと考えている。

4  申立人○○市および申立人野村治夫について、上記のとおり、それぞれに被相続人に対して特別縁故関係を有するところ、被相続人の相続財産管理人には昭和五〇年四月一二日弁護士葛原忠知が選任され(当庁昭和五〇年(家)第七〇二号)、これは同年同月一八日付官報により公告された。同管理人は同年六月一九日相続債権者受遺者への請求申出の公告をし、更に、同年九月二七日、当庁は相続権主張の催告をし(当庁昭和五〇年(家)第二二八九号)、昭和五一年四月三〇日催告期間が満了したが、相続権を主張する者はなかつた。

5  被相続人の債権債務を清算した残余財産は昭和五〇年五月三一日現在、六六三万五、六七一円の現金のみである。

6  以上の次第であるから、申立人両名は被相続人の特別縁故者として相続財産の分与を求めて本件申立に及んだ。

第二当裁判所の判断

一  当庁昭和五〇年(家)第七〇二号相続財産管理人選任申立事件および同昭和五〇年(家)第二二八九号相続人捜索公告申立事件の記録によると、次の事実を認めることができる。

被相続人宮田よしのは、宮田義一郎とかやの長女として、明治四二年八月二日出生したが、終生婚姻しなかつたので、夫も子もなかつた。被相続人の父宮田義一郎は昭和三四年一月二三日に、母かやは昭和二八年一二月二一日にいずれも死亡し、また被相続人には兄弟姉妹はなかつた。被相続人は昭和五〇年二月二四日死亡したが、戸籍上直系卑属も尊属も兄弟姉妹もなく、その他に相続人のあることが明らかでなかつた。そこで、被相続人の使用者であつた○○市において、昭和五〇年三月一一日当裁判所に被相続人の相続財産管理人選任の申立てをし(当庁昭和五〇年(家)第七〇二号)、当裁判所はその申立てを相当と認め、同年四月一二日弁護士葛原忠知を相続財産管理人に選任し、同月一八日その旨を官報に公告した。しかし、公告後二ヵ月以内に相続人のあることが明らかにならなかつたので、同管理人は相続債権者受遺者への請求申出の催告を同年六月一九日付の官報に公告したが、なお相続人のあることが明らかにならなかつた。そこで、同管理人は当裁判所に相続人捜索公告の申立てをした(当庁昭和五〇年(家)第二二八九号)ので、当裁判所は同年一〇月三日付官報に、昭和五一年四月三〇日を期間満了日として相続権主張の催告をしたが、その間にも何人からも何の申出もなかつた。したがつて、上記期間満了をもつて、被相続人宮田よしのの相続人不存在が確定した。

しかして、本件申立人両名は、いずれも上記期間満了後三ヵ月以内に本件申立に及んだ。

二  当庁昭和五〇年(家)第七〇二号相続財産管理人選任申立事件、同昭和五〇年(家)第二二九〇号相続財産処分許可申立事件の各記録に、本件記録中の各資料ならびに小田康次郎、藤山勇一、原口雅男、野村和子に対する各審問の結果を総合すると、次の事実を認めることができる。

1  被相続人宮田よしのは富山県で出生したが、戦時中、父母と共に旧××村(昭和二三年八月一日○○町に合併され、更に同町は昭和三一年一二月一日○○市となる)に移住した。そして、昭和一八年、被相続人の父義一郎は同村役場の使丁(いわゆる小使)となり、被相続人は同村役場に隣接する同村立××小学校(当時は国民学校、市制施行以後は○○市立××小学校)の使丁(後に校務員と呼称されるようになる。以下、校務員と称する)となつた。以来、被相続人は同小学校の校務員として勤務を続け、昭和五〇年二月二四日、風邪をこじらせて申立人野村方の離れで死亡するに至つたが、この間コツコツと蓄財を続け、不動産こそ存しないものの、死亡時、次の相続財産を残した。

資産    金七五九万九、六〇七円

内訳現金          九九万九、二九九円

預貯金         五六〇万〇、三〇八円

貸付金         一〇〇万円

負債     金三七万七、五八〇円

内訳 市民税・府民税未納分 一七万七、五八〇円

葬祭費        二〇万円

差引純資産 金七二二万二、〇二七円

しかして、相続財産管理人選任後、昭和五一年一一月一五日までの間に、当裁判所の許可を得て、支出された墓碑建立費九九万円の外、諸費用四〇万一、一五〇円を要し、更に当裁判所において、相続財産管理人に対し報酬として金一〇〇万円を付与したので、その総合計金二三九万一、一五〇円を上記相続開始時の純資産から差引くと、金四八三万〇、八七七円となるが、これに、預貯金利息の金七六万八、八九一円を加算すると、昭和五一年一一月一五日現在の被相続人の相続財産は、現金五五九万九、七六八円となる。なお、上記金員は相続財産管理人葛原忠知が同管理人名義の△△銀行○○支店普通預金口座(番号〇六八五四一)に預金して保管中である。

2  ところで、被相続人は上記××小学校に勤務した三二年間、父義一郎生存中は、同人の勤務する××村役場の一室に義一郎と共に住み、同人死後は同小学校が改築になる昭和四三年頃まで同小学校内に住込んで生活していたので、公的にのみならず私的にも同小学校の教師や児童の世話を親身になつてし、一方、被相続人のこうした仕事ぶりから、同小学校に通学する児童は被相続人を深く慕い、また、教師らも被相続人を家族同様に遇し、私生活面での相談事を持ちかけるなど、被相続人はいつしか同小学校にとつて、なくてはならぬ存在となつていつた。そのため、校務員の場合も、○○市職員の他の職種と同様、一小学校三年とする基本方針があるにもかかわらず、被相続人の場合には地元の強い要望もあつて、就任して死亡するまで、一度も他校に異動することはなかつた。このように、被相続人と同小学校および地元住民とは、その結びつきが至つて深かつたので、被相続人の葬儀は、地元自治会が主宰して行つた。

3  被相続人は生前一度も婚姻しなかつたが、申立人野村治夫の祖父(同申立人の母野村良子の養父)亡野村喜代治といわば愛人関係にあつた時期もあり、同人が昭和四一年死亡する際には、やや目の悪い同人の妻ヤスエを助けて約一〇日間に亘つて、日夜、喜代治の看護に努めたことなどから、喜代治の死後はヤスエやその他野村家の人々とも親戚同然の交際をするようになつていた。そして、昭和四三年三月、同小学校が改築にかかることになり、被相続人がそれまで居住していた校庭内のプレハブ住宅も取り壊されることになつた際、被相続人は申立人野村方に、同家の離れの借用方を申入れたところ、同家でもこころよく被相続人を迎え入れることになり、わずかの賃料で同家の離れを被相続人に提供した。それ以来、被相続人と野村家との交際は一層親密さを増して行つた。母屋と離れの形で一応、生活は別にされてはいるものの、野村家から被相続人に食事を運ぶこともしばしばであり、また入浴は野村家でするというように、野村家では一人暮しの被相続人に対し、細やかな心づかいをし、一方、被相続人においても申立人野村の妻和子や上記ヤスエの話し相手となつたり、あるいは、同申立人の子等に旅充から土産を買つて来たりするなど、家族同然ともいうべき交際ぶりであつた。しかも、昭和五〇年二月二〇日頃、被相続人が風邪のため床についたときには、上記和子が被相続人を病院につれて行き、その後、死亡するに至つた同月二四日まで、同人がつききりの看病をし、葬儀は野村家において行われ(主宰したのは地元自治会である)、野村家では被相続人の墓まいりなども欠かしたことがない。

三  そこで、申立人両名が被相続人と特別の縁故関係を有するか否かについて検討する。

1  申立人○○市は地方公共団体であり、上記認定の事実によれば、民法九五八条の三に例示する「被相続人と生計を同じくした」ことはなく、またその「療養看護に努めた」こともないことは明らかである。

しかしながら、上記認定の事実によれば、被相続人は三二年もの間、現在の○○市立××小学校に勤務を続け、この間、多くの児童に慕われ、また、同小学校に勤務した多数の教師との交流も深いことが認められ、一人暮しを通した被相続人にとつては、同小学校で仕事をすることが、何よりの生きがいであつたろうと考えられる。そのような被相続人と同小学校ないし同小学校区の人々との交流の深さからすれば、被相続人と○○市立××小学校との特別の縁故関係は、自然人と何ら異なることなく存するというべきであり、したがつて申立人○○市を被相続人の特別縁故者と認めるのが相当である。

2  申立人野村については、上記認定の事実によれば、被相続人と生計を同じくしたことはないものの、被相続人が昭和四三年三月同申立人方の離れに住むようになつてからは、過去の経緯にとらわれることなく、一人暮しの被相続人を家族の一員ともいうべき態度で遇したうえ、被相続人が風邪をこじらせて死亡した際には、ほんの四、五日のこととはいえ、同申立人の妻和子が被相続人につききりで看病し、更に被相続人の死後には墓まいりを欠かさないなど、同申立人の一家をあげて、被相続人と家族同然の親密な交際をしていたことが認められるので、同申立人を被相続人の特別縁故者と認めるのが相当である。

四  しかして、申立人両名に対する分与の額について検討するに、申立人野村と被相続人との関係の方が申立人○○市の場合よりもより直接的ではあるが、上記認定の諸事情からみるとき、いずれが縁故関係がより深いと決し難いというべきところ、上記各資料によれば申立人○○市は本件において分与を受けた場合は、被相続人の勤務した小学校に被相続人の名を付した文庫を作るなどして、被相続人を偲びたいと考え、また、申立人野村は分与を受けた場合には、それをもつて被相続人の永代供養の費用にしたいと考えていることが認められるので、これらを総合勘案して、申立人野村に上記認定の被相続人の相続財産金五五九万九、七六八円のうち金一五〇万円を、申立人○○市にその残額全部を、それぞれ分与するのが相当であると考える。

五  よつて、相続財産管理人葛原忠知の意見を聴いたうえ、主文のとおり審判する。

(家事審判官 佐野久美子)

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